4.3.16

水口宿より三条大橋へ四十三キロ


これまでよりも心身ともに充実した朝を迎える。今日がこの旅最後の行程。一気に三条大橋へと向かう。

お世話になった宿のご主人(小学生の息子さんのおじいさん)に見送られ、足どり軽やかに出発する。
いよいよ宿場もあと三つ。

これより家光公の命によって建てられた水口城、横田渡跡、弘法杉、ところてんに黒蜜をかけて食べる発祥の地とされる夏見の一里塚跡を過ぎればほどなくして五十一番目の石部宿に着く。

ここは「京たち石部泊まり」と言われた京都から出発したおおかたの旅人が一泊目をとる宿場。

ここをあっという間に駆け抜け、家康公の腹痛を助けた和中散本舗、田楽発祥の地目川立場の元伊勢屋跡、草津名物うばがもちの本家を過ぎれば、東海道と中山道の追分へと至る。
しかしこの追分がどこにあるのかわからず、気が付けば通り過ぎていた。痛恨の極み。



追分のそばにあるのが五十二番目の草津宿の本陣跡。つまりこちらに目がいき追分に気が付けなかったということ。それぐらいそばにある。
ちょうど本陣跡の真正面にトラックが止まっていたため、正面からその姿を拝むことはかなわなかった。



ここで日本三大古橋の一つ瀬田の唐橋ではなく、旧東海道からそれ県道十八号線巨大なイオンショッピングモールを過ぎたところ、近江大橋にて琵琶湖を渡る。
「急がば廻れ」のことわざの由来らしい瀬田の唐橋よりも、こちら近江大橋のほうが大津へは早い。なんとも複雑な心持ち。


橋を渡りきり、築城の名手藤堂高虎の手がけた御所城跡を左手に見て、石田三成がつながれた銀杏の木が残る和田神社を過ぎ、

木曽殿と背中合わせの寒さかな

松尾芭蕉の門下島崎又玄の有名な句で知られる義仲寺、蹴鞠の祖神精大明神を祭った平野神社を通り越せば五十三番目の大津宿に着く。

この宿場は最後にして江戸の当時は最大の宿場であった。

いよいよ最後の宿場も通過し花の都京都を目指すのみ。しかし京都は四方を山に囲まれているためそれを越えなければならない。




なぜか鳥居の前に線路が敷かれてしまっている蝉丸神社の下社。しかしきちんと踏切はある。



夜をこめて鳥のそら音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ

これやこの往くもかへるも別れては 知るも知らぬも逢坂の関

百人一首にも選ばれたたいへん有名なこの二つの歌。ここに出てくる逢坂はここのこと。なんとも感慨深い。




こちらは線路が敷かれていない蝉丸神社の上社。蝉丸という名がなんともたまらない。琵琶の名手としても有名である。



蝉丸の余韻に浸りながら歌の舞台逢坂山関跡を越えしばらくすれば着くのが髭茶屋追分。近江国と山城国との国境。げんざいも滋賀県と京都府の境である。ここを右へ京都に入る。

琵琶法師の祖人康親王と蝉丸ゆかりの山科地蔵徳林庵、旅人ののどを潤した亀の水不動尊、南禅寺近くの蹴上駅を過ぎれば市街地が見えてくる。





そのまままっすぐに三条通を進めば東海道の終点三条大橋に着く。最終日の道中が非常に楽しいものだったこともあり日暮れ前余裕をもって着くことができた。時は一月廿五日午後四時をすこしまわった頃。




江戸時代の十返舎一九作のメガヒット小説『東海道中膝栗毛』の主人公、弥次郎兵衛と北八。この旅を三平にそそのかした張本人。

計十五日、総距離百廿四里八丁(約四百八十八キロ)の旅路もこれで終わり。
一見すれば遠い東京と京都も、一歩いっぽ進めばたどり着くもの。当たり前のはなしだが。
そしてこれも当たり前なんだが、近代以前の旅人たちは東海道を旅することが目的ではなかったわけだ。お伊勢参りやご贔屓にしている神様の総本山へ参ったり、そのために東海道を通っただけのこと。

かたや三平はと言えば、まあ、あるといえばあるしないといえばない。
しかし、目的地までゆくその旅路も同じくらい楽しむ旅もあってもいいのかもしれない。
きっと当時の旅人も同じように楽しんだのだろう。名物を食べたり、絶景を拝んだり、特産品を見たり、女郎を買ったり。

素晴らしく交通手段の発達したこのありがたい時代、様々な目的地へのたどり着き方があって旅すること自体をもっと楽しめるようになった。その中で今回、徒歩はいい景色を見せてくれたのだった。


ちなみに、この旅での出費は合計七万千八百円。徒歩旅は一番金のかかるスタイルであるらしい。あしからず。



現代版東海道中膝栗毛これにて終了。 
三平はこの後公共交通機関を駆使して大阪、山口は萩を経由し福岡へと向かったのであった。

3.3.16

亀山宿より水口宿へ三十三キロ


今日の厳しい旅路に備えしっかり朝食をとり宿を出る。



これより野村一里塚、大岡寺畷、小萬のもたれ松を過ぎほどなく四十七番目の関宿に着く。





古代三関の一つ鈴鹿関が置かれた古くからの交通の要所。その姿をたいへんよく残していて、現在でも多くの観光客が訪れる東海道きっての宿場町。
江戸方から京方までずっとこの街並みが続くから、関宿だけを目当てに来ても十分に楽しい。

関宿を出て鈴鹿川に沿って上流へとのぼる。筆捨山を右手に国道から旧道に入りしばらく歩けば四十八番目の坂下宿にやってくる。

関宿とはうってかわって非常に寂しい宿場跡。山間にあり電車の線路をひく際に勾配が急でひけなかったたため、駅も設けられず急速に衰退したそうな。ここにもまた近代日本の発展の跡が見られるということか。

ここを過ぎれば伊賀と並ぶ忍者の里甲賀市に入る。そして向かうは東海道三大難所最後の一つ鈴鹿峠。




舗装道路の脇に突如現れる鈴鹿峠へ至る山道。気を付けていないと見逃すほどわかりずらい。
古いつくりの城の階段と同じかそれ以上の急こう配を登るとすっかり山の中へ入る。






昨晩降った雪がまだ残る不安定な道は滑りやすく何度か肝を冷やす。登りであればまだいいが下りとなるとよほど慎重に歩かなければ、そのまま滑り落ちそうなほどであった。





鈴鹿大明神と呼ばれる片山神社を過ぎると雪もより深まる。この日すでに足跡が残っていたから誰かが先にこの峠を越えたのだろう。エラい人もいるもんだ。



久々の山道に足取りも軽く歩いていると気が付けば鈴鹿峠に着いた。
箱根峠もそうだったがこのご時世、想像しているよりも歩いて峠を越えることは難しいことではないようだ。きちんと石畳や階段が作られ歩きやすいようになっている。
ここからは近江国滋賀県。



滋賀県に入ったと思ったらこの積雪。山脈を隔てるとこれほど積雪量が違うものか。わだちを通り万人講常夜灯を過ぎ国道に出る。

これより山中一里塚、新名神高速道路、蟹坂古戦場跡を過ぎれば街道橋に至る。
鈴鹿馬子唄に

坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る

と詠われるように、広重は雨の街道橋を渡る大名行列を浮世絵に描いた。
ここを渡れば四十九番目の土山宿に着く。



道の駅あいの土山が宿場の入り口に作られていることもあり人の往来はある程度ある。
道の駅にて冷えた身体を暖め、しばしの休憩ののち再出発。
この宿場いたるところに旧旅籠跡の石碑が立っていて、当時の姿を想像しながら歩くことができる。本陣跡も風情漂う。

ここを出て地安禅寺、大野市場一里塚跡を過ぎ幕末の俳人三好赤甫の旧跡を眺め、岩神社を過ぎれば五十番目の水口宿に着く。

ここで一晩旅の疲れを癒す。
そしてこの水口で泊まった宿がこの旅において一番素敵な宿だった。
その名も「ホテル古城」。きれいなのはもちろんだが、はたらく人が素晴らしい。家族で営んでいて忙しいときは小学生の息子さんもお母さんの手伝いでお客さんの案内をしてくれる。
しっかりした子にはしっかりした親がいるもので、そのお母さんも非常に愛想がよく丁寧であった。

これだけで峠道の疲れも忘れるほど、気持ちよく床に就いた。

2.3.16

四日市宿より亀山宿へ廿二キロ


今日も歩く距離は短い。十分な睡眠をとりすっかり元気に出発する。



四日市あすなろう鉄道内部線に沿うように歩いてゆくと、日永追分にたどり着く。
ここは東海道と伊勢街道との分かれ道。鳥居を正面に見て右が東海道左が伊勢街道となる。江戸からお伊勢参りに来た旅人はここで左にそれてゆく。

日永追分を右へ東海道をそのまま進む。
ほとんど国道一号線と同じ道を行けば四十四番目の石薬師宿に着く。



本陣跡もきれいに残る。ここは国文学者であり歌人の佐佐木信綱の生まれ故郷。宿場のいたるところにゆかりの碑が設けてある。
連続テレビ小説「花子とアン」で一躍有名になった村岡花子も佐佐木信綱のもとで和歌を学んだそうだ。





石薬師宿の名のとおりここには薬師如来が安置された石薬師寺がある。
名前の由来は少々長くなるので省略する。立派な寺で弘法大師像も安置されている。
江戸時代参勤交代で通る城主が道中の安全祈願をした場所としても有名である。

この宿場を出て畑の真ん中を通てゆくとほどなくして四十五番目の庄野宿が見えてくる。



油問屋だった旧小林邸。現在は庄野宿の資料館となっている。
今まで通ってきた宿場の中でも特に道幅が狭く、江戸の時分からあまり変わっていないように想像される。

鈴鹿川の支流安楽川を渡りしばらくすれば四十六番目の亀山宿に着く。
別名を胡蝶城と言い優美であっただろう亀山城も、廃城令によって取り壊され今はその姿を拝むことはできない。

今夜はここで泊まり、明日の難所へ身体を備える。

1.3.16

宮宿より四日市宿へ十四キロ


泊まったホテルの部屋が塗装なのか壁材なのか、嫌な臭いでどうも気の落ち着かぬ夜を過ごした。

今日は渡しを電車で越えるため歩く距離が少ない。ゆっくりと名古屋城を見物しにゆく。
朝の栄は道が汚い。個人的な名古屋の印象は悪くなるばかり。




ここに来るまでいくつも城を見てきたがさすがは天下にその名を轟かす名古屋城、荘厳ないで立ち。
異名を金鯱城とする所以、金の鯱もその姿を燦然と輝かす。

伊勢音頭に

伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ尾張は名古屋の城でもつ

と詠われているようにその昔から名古屋のシンボルであった名城だ。




上の兜は黒漆塗鉢巻形兜。米国映画で使われそうなハンサムな姿かたちをしている。

下は本丸御殿天井画。梅とおぼろ月を描いたもの。ひとつをとってもこれだけ優美な風情のある作品が天井を埋め尽くしていたのだから、それはそれは豪華なものだったのだろう。



天守閣からは名古屋の市街地が一望できる。奥に見える山々は今も昔も変わらぬ姿なのだろうか。





ひとり大きな荷物を背負い続いて向かうは再建された本丸御殿。
金をふんだんに使ったものの見事な贅沢御殿。襖絵の豹や虎の目の鋭さは今にも浮きいでてきそうな勢いであったが、個人としてはこの色彩は好まれなかった。



築城の名手加藤清正も携わったという立派な武者返しを眺め、城をあとにする。

いよいよ名古屋駅から関西本線にて桑名へ向かう。
「七里の渡し」というくらいだからその距離およそ七里(約廿八キロ)ある。

桑名駅に降り立てば伊勢国三重県に入る。



桑名側の渡し場。この周辺に四十二番目の桑名宿が置かれていた。

蛤が有名な桑名を出てのんびり歩く。
三滝川を渡りほどなくして四十三番目の四日市宿へ着いた。
諏訪神社からつづく商店街を抜け近鉄四日市駅のそばが旧宿場。

今夜はここで宿をもとめる。
名古屋城を見学したこともあり、結局それなりに歩いた一日。
まちゆく人のおしゃべりも関西弁がきこえてきた。