これまでよりも心身ともに充実した朝を迎える。今日がこの旅最後の行程。一気に三条大橋へと向かう。
お世話になった宿のご主人(小学生の息子さんのおじいさん)に見送られ、足どり軽やかに出発する。
いよいよ宿場もあと三つ。
これより家光公の命によって建てられた水口城、横田渡跡、弘法杉、ところてんに黒蜜をかけて食べる発祥の地とされる夏見の一里塚跡を過ぎればほどなくして五十一番目の石部宿に着く。
ここは「京たち石部泊まり」と言われた京都から出発したおおかたの旅人が一泊目をとる宿場。
ここをあっという間に駆け抜け、家康公の腹痛を助けた和中散本舗、田楽発祥の地目川立場の元伊勢屋跡、草津名物うばがもちの本家を過ぎれば、東海道と中山道の追分へと至る。
しかしこの追分がどこにあるのかわからず、気が付けば通り過ぎていた。痛恨の極み。
追分のそばにあるのが五十二番目の草津宿の本陣跡。つまりこちらに目がいき追分に気が付けなかったということ。それぐらいそばにある。
ちょうど本陣跡の真正面にトラックが止まっていたため、正面からその姿を拝むことはかなわなかった。
ここで日本三大古橋の一つ瀬田の唐橋ではなく、旧東海道からそれ県道十八号線巨大なイオンショッピングモールを過ぎたところ、近江大橋にて琵琶湖を渡る。
「急がば廻れ」のことわざの由来らしい瀬田の唐橋よりも、こちら近江大橋のほうが大津へは早い。なんとも複雑な心持ち。
橋を渡りきり、築城の名手藤堂高虎の手がけた御所城跡を左手に見て、石田三成がつながれた銀杏の木が残る和田神社を過ぎ、
木曽殿と背中合わせの寒さかな
松尾芭蕉の門下島崎又玄の有名な句で知られる義仲寺、蹴鞠の祖神精大明神を祭った平野神社を通り越せば五十三番目の大津宿に着く。
この宿場は最後にして江戸の当時は最大の宿場であった。
いよいよ最後の宿場も通過し花の都京都を目指すのみ。しかし京都は四方を山に囲まれているためそれを越えなければならない。
なぜか鳥居の前に線路が敷かれてしまっている蝉丸神社の下社。しかしきちんと踏切はある。
夜をこめて鳥のそら音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ
これやこの往くもかへるも別れては 知るも知らぬも逢坂の関
百人一首にも選ばれたたいへん有名なこの二つの歌。ここに出てくる逢坂はここのこと。なんとも感慨深い。
こちらは線路が敷かれていない蝉丸神社の上社。蝉丸という名がなんともたまらない。琵琶の名手としても有名である。
蝉丸の余韻に浸りながら歌の舞台逢坂山関跡を越えしばらくすれば着くのが髭茶屋追分。近江国と山城国との国境。げんざいも滋賀県と京都府の境である。ここを右へ京都に入る。
琵琶法師の祖人康親王と蝉丸ゆかりの山科地蔵徳林庵、旅人ののどを潤した亀の水不動尊、南禅寺近くの蹴上駅を過ぎれば市街地が見えてくる。
そのまままっすぐに三条通を進めば東海道の終点三条大橋に着く。最終日の道中が非常に楽しいものだったこともあり日暮れ前余裕をもって着くことができた。時は一月廿五日午後四時をすこしまわった頃。
江戸時代の十返舎一九作のメガヒット小説『東海道中膝栗毛』の主人公、弥次郎兵衛と北八。この旅を三平にそそのかした張本人。
計十五日、総距離百廿四里八丁(約四百八十八キロ)の旅路もこれで終わり。
一見すれば遠い東京と京都も、一歩いっぽ進めばたどり着くもの。当たり前のはなしだが。
そしてこれも当たり前なんだが、近代以前の旅人たちは東海道を旅することが目的ではなかったわけだ。お伊勢参りやご贔屓にしている神様の総本山へ参ったり、そのために東海道を通っただけのこと。
かたや三平はと言えば、まあ、あるといえばあるしないといえばない。
しかし、目的地までゆくその旅路も同じくらい楽しむ旅もあってもいいのかもしれない。
きっと当時の旅人も同じように楽しんだのだろう。名物を食べたり、絶景を拝んだり、特産品を見たり、女郎を買ったり。
素晴らしく交通手段の発達したこのありがたい時代、様々な目的地へのたどり着き方があって旅すること自体をもっと楽しめるようになった。その中で今回、徒歩はいい景色を見せてくれたのだった。
ちなみに、この旅での出費は合計七万千八百円。徒歩旅は一番金のかかるスタイルであるらしい。あしからず。
現代版東海道中膝栗毛これにて終了。
三平はこの後公共交通機関を駆使して大阪、山口は萩を経由し福岡へと向かったのであった。